「あなたの人生そのものがミュージカルになる!」と言われた、紀々ねぇさんです。
いつかちゃんとまとめてお伝えしようと思っていると、日が暮れるどころか人生が終わってしまうような気がするので、「私がここまでくるまで」のことも少しずつ書いてみることにします。
私が早稲田に出合うまで
私の出身大学の話になると、たいてい「優秀なんですね!」と言われます。
それは、大学の偏差値が高いからなのだと思いますが、実は私は、自分の偏差値がわかりません。
偏差値のテストを受けたことがないからです。
だったら、裏口入学???
そんなスリリングなお話でもなく、首里高校からの指定校推薦という道が突然ひらけて、東哲女(とうてつおんな)になりました。
なので、私の大学までの道のりについては、きっと受験の参考にはなりません。
推薦文を書いて下さった担任の先生からも「お前の生き方は、誰の参考にもならないなぁ」とお墨付きをもらっていますので、あしからず。
でも、王道だけが道ではないという小さな風穴のひとつになれたら、しあわせです。
14歳の決断~一人で北九州にレッスンへ
私は、6歳からエレクトーン、10歳からピアノのレッスンに通わせてもらっていました。
14歳の時に、人生を変える出会いがあり、エレクトーンの演奏家の先生のもとへ表現方法を学ぶために、北九州へ通わせてもらうことになりました。
哲学的な発想をもった母は、いい意味で「子どもを子ども扱いしない人」でした。
私が「この先生から学びたい!」と頼んだ時にも、ツーリストの方を紹介してくれて「自分で相談するように。そして、北九州には自分で通うこと」と約束して許してくれました。
母については、こちらもどうぞ。
高校には行きません!宣言~なぜ高校に行くの?
エレクトーンの師匠は現役の演奏家でもあり、多忙でとても厳しい人でした。
平日のレッスンが中心だったため、学校を休んでレッスンに通うことになる私は、師匠から「ある約束が守れるなら」と、レッスンを受けることを許されました。
それは……
「学校の成績が下がったら、レッスンは受けさせないから」という約束(成績が下がったことを音楽のせいにするのは許さない!ということ)
それはもう、私は、必死に勉強もしました。
1秒でも多く音楽に時間を使いたかったので、基本は「学校だけで勉強をする」と決めて、塾にも行きませんでした。
その頃の私の日々については、こちらに書きました。
当時の私は「勉強する時間がもったいない」と感じていたので、中学卒業後は高校には行かないつもりでした。(勝手に決定!)
そんな私に、母は質問をしました。
母「高校に行かないで、何をしたいの?」
私「音楽。たくさん練習して、いっぱい弾きたいから」
母「あのね、学校に行かないなら社会人になるから、仕事をしなくちゃいけないと思う。そうすると、学校に行くよりも弾く時間がとれないかもしれないよ。きっと、高校生になった方が自由にたくさん弾けると思うけど」
こうして私は、「社会人」という新しい選択肢が見えて、高校生になることと社会人になることを自分なりに比較して考えた結果、高校生になることにしました。
一番自由に弾ける学校はどこ?~進路を考える
では、どこの高校に行けば一番たくさん弾けるのか?
私の次の「選択」が始まりました。
「ゼロ校時」なる早朝講義や、放課後の講義などのない学校にする!
どこまでも「音楽第一」で選んだのが、自由な校風で、家から一番近かった首里高校でした。(なんだか失礼な選び方で、ゴメンナサイ)
まずは首里高校に入る!
学校では五線紙と授業のノートの両方を机に置いて授業を受け、友だちとおしゃべりする時間なども削って勉強して、レッスンを受けるために成績は落とさないように、学校では必死に集中して勉強しました。(この時に、私の集中力はかなり鍛えられたと思います)
そして、首里高校に無事合格。
さぁ、あとは音楽だけの人生が待っている!!!!!
後に、この自由な校風にどれだけ助けられたか、そして運命の出会いがあることも、この時の私は知りません。
初めての呼び出しと誤算~紀々の高校生活
「これからの人生=音楽」と決めた私は(そんな単純にいくわけはないのですが)、入学してすぐに担任の先生から呼ばれました。
先生「この間の、卒業後の進路についてのアンケート……キミは就職と答えていたけれど、それはなぜ?」
私「音楽の仕事をしたいからです!」
先生「進学校に入って最初のアンケートで、就職と答えたのはキミだけだったんだよ?」
私「え、首里高校って進学校だったんですか!?」
こんな調子で、私の高校生活はスタートしました。
とにかく弾いていたかったので、修学旅行も参加せず、相変わらず、授業中は五線紙と授業のノートを並べ、昼食も、一人でサッと食べてあとは楽譜を書いたり試験勉強をしたり、という日々でした。
卒業文集で「〇〇ランキング」なるものが色々あった中、私は、とある部門で1位になっていました。
「もっと話したかった人ランキング」
周囲が話しかけるタイミングが見つけられないくらい、必死で過ごしていたのでした。
なぜか毎年、クラスのリーダーには推薦されてしまっていたので「リーダー研修には不参加でよければ」という条件で引き受けて、学校の時間内で全力でこなしていました。
人生が終わったと思った17歳~抜け殻の人生のはじまり
そんな日々だったので、私自身はもちろん、私を知るすべての人はきっと、私は師匠を追いかけてこのままプロの道に進むのだと思っていたのでは、と思います。
ところが、(またまた大きな中略)……
どうしても越えられない問題があり、北九州の師のもとを離れることになってしまいました。
The end.
この言葉は、こういう時に使うのだと実感した出来事。
もう高校2年、周囲は受験に向けて本格的に動いていました。
そんな中、音楽も目標も自信も失ってしまった私は、「抜け殻」。
家族も親友も心配するほどの状態でした。
もちろん、ここから受験に気持ちを切り替えることも、ましてや受験に間に合うことも無理。
消えてしまいたい。
生きていても、意味がない。
そう思いながら、かといって消える勇気も行動力もないまま、どうにか生きていました。
受験は間に合わなくても「せめて、何かやらなくちゃ」~迷惑をかけないように書き始めたコラム
みんなが受験に向けて頑張る姿を見ながら、私は、自分が情けないというよりは「ボーッとしていては申し訳ない」と感じるようになりました。
受験は無理だけど、何かはやらなくちゃ。
そして、思い出したのが……高校1年の時、国語の先生が下さった言葉でした。
当時、学校を休んでインドへ演奏旅行に行った私に「3週間の欠席の穴埋めに、体験談をコラムに書いてみない?」という提案を頂いていました。
ところがその頃は、インドでの出来事が衝撃的で消化できず、書くどころか、言葉にすることすら出来ませんでした。
その申し訳なさと気がかりをふと思い出し、「今なら書けるかも」とやってみることにしました。
自分自身にも、区切りをつけなくちゃと。
この世から消えてしまう前に、できることはまだあるかもしれない。
それをまずはやってみようという、本当にかすかに残ったエネルギーで動き出したのでした。(この時の自分を抱きしめてあげたいです)
そして、書きあがった原稿を当時の国語の先生に提出したのが、エッセイコンテストにエントリーされることになりました。
もう全力で書き終えた私は、あらゆる感情もなくなって、また抜け殻生活に戻りました。
そんな抜け殻に、ある日、先生からまた呼び出しがかかりました。
「あのエッセイが、全国で2位に選ばれたよ!」
※ JICA国際協力全国高校生エッセイコンテスト 準特選受賞
抜け殻、3年生の新入部員になる!~「弁論部」
ものすごい倍率の中、「ただ、消えてしまう前に自分に区切りをつけるために書いた」あの文章が、選ばれたというのです。
抜け殻のまま授賞式に出て、新聞社の取材を受け、受賞者スピーチをして……自分で動く力はないので、ただ呼ばれるがまま、先生に連れられるまま「大忙しな抜け殻」になりました。
そしてある日の休み時間。
クラスの友人が私のところに来てこう言いました。
「あの先生が、紀子(私の本名)と話がしたいって呼んでるよ」
見ると、知らない女性の先生が微笑んでいました。
当時の私は、もう自分の意思では動けない浮き草のような状態だったのですが、呼ばれたら動くことはできました。
その女性は、弁論部の顧問の故 山城美智子先生でした。
「紀子さん、弁論やりませんか?」
こんな抜け殻の私に、熱弁をふるう弁論なんてとても無理だとわかったので、すぐにお断りしました。(なぜか、ここでは抜け殻なのに主張できました)
ところが、翌日……「紀子、またあの先生が呼んでるけど、どうする?」と友人が。
こうして美智子先生は、毎日毎日、抜け殻な私をスカウトにいらしたのでした。
「あなたは、エレクトーンの師匠にインドに行ってみないかと言われた時に行ったからこそ、この文章が書けて、賞をもらった。ならば、弁論をやってみないかと言われた今も、のってみるべきでは?」
決して声が大きいわけでも迫力があるわけでもない美智子先生でしたが、この言葉は、抜け殻の私にほんの少しだけ消えずに残っていた「動き出すスイッチ」をONにしたのでした。
いえ、どちらかというと「断るエネルギーが切れた」が近いかも知れません。(そのくらい本物の「抜け殻」でした)
「みんな受験に向けて頑張っているから、私もなにかやらなくちゃ」
音楽も受験もあきらめた私は、とうとう断り切れず図書館に通い、弁論大会に向けて特訓の日々を送ることになったのでした。
机の上には、いつも原稿用紙と授業のノートを置いて、久しぶりに二刀流。
少しずつ、本当に少しずつ……抜け殻のまま動き出す自分を感じられるようになりました。
エッセイコンテストの副賞でインドネシアの研修旅行に参加し、帰国後のスピーチがきっかけで、次なる舞台につながりました。
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抜け殻に起きた小さな変化
「あなたは、笑顔がいいから大丈夫!」
自信というものをすっかり手放してしまった私に、美智子先生は、いつもそう声をかけて下さいました。
「消えてしまいたい」という気持ちはまだ消えていなかった私は、褒め言葉も受信拒否モードでしたが、水がしみ込むように少しずつ「大丈夫」の魔法にかかっていたように思います。
何か一つ、打ち込めるものがあることの強さ。
私はその時に、痛感しました。
結果は結果。
まずは、何か打ち込めることがあるということは本当に素晴らしく、生きる力になると思えるようになったのは、この経験のお蔭でした。
ピアノコンクールに臨む子どもさんに「どんな結果でも、おめでとう!だからね。こうして元気に挑戦できるだけでも、おめでとう!」と声をかけるようになったルーツも、ここにあります。
抜け殻、なぜか全国へ行く!
「あなたは、文章が書けて舞台度胸もあるから、弁論にピッタリ!」
美智子先生のスカウトから、私は3年生の新入部員になり、そして、いくつもの弁論大会を勝ち抜き全国大会を渡り歩くことになりました。
熱弁をふるうエネルギーはとてもないので、抜け殻テンションのまま、その中で出来る限り前向きに語るという感じでしたが、どうやらそれが審査員の方々には新鮮に映ったようでした。
県外の大会に行っては、沖縄に戻ると受賞報告に・学校での表彰式や取材の対応など、多忙な抜け殻としての日々。
相変わらず自信なるものはないままでしたが、「消えてしまいたい」と思うヒマもなくなっていました。
福沢諭吉杯にて。
あきらめたはずのものが、手に入るとき~「変わり者」に訪れた奇跡
ひと通りの大会が終わり落ち着いたある日。
美智子先生から、あらためて話があると呼ばれて図書館に行きました。
美智子先生「紀子さん、大学に行く気はない?」
私「今さら間に合わないし、私は受験には向かないし、無理です」
美智子先生「早稲田に行ってみない? 文学部に指定校推薦の枠があるの」
私「でも、欠席が多くて琉大の推薦も無理だと言われたので」
美智子先生「これが募集要項。読んで考えてみて。早稲田の文学部は、あなたのような変わった人を求めているのよ!」
それまでにも、一応、教室などに掲示されていた色んな募集要項や大学の偏差値などが書かれた資料も見てはいました。
でも、そのほとんどが「欠席日数が〇日以内」という条件で私は当てはまらず、受けるべき模試も、北九州にいて受けていなかったものがあり、無理なのでした。
ところが、早稲田の文学部の場合……
心身共に健康で、本学で学ぶ意志が明確であること。
ザックリですが、このような条件だったのです。
なんと太っ腹!と驚きました(笑)。
早稲田に通う自分が見えた日~抜け殻の決意
そのとき私は、なぜか早稲田に通う自分の姿が見えたのを覚えています。(決して霊感はありません)
「行きたい」という能動的な気持ちはまだ回復していなかった抜け殻でしたが、「行くんだなぁ」という、ぼんやりとした気持ちが生まれていました。
そして、文学部に行くなら「哲学科」を希望しますと「早稲田で学ぶ明確な意志」を文章にしたため、それを美智子先生と担任の与儀先生に託し、結果を待ちました。
驚いたのは同級生たちと親戚一同(笑)。
音楽だけをひたすら追い続け、受験にはまったく目もくれず、そして最近は抜け殻だった私が……早稲田大学に合格したのですから。
こうして、塾にも行かず、自分の偏差値もわからない、抜け殻の早大生(後の東哲女/とうてつおんな)が誕生しました。
抜け殻、早稲田へ行く~果たせなかった約束
私の抜け殻期は、この後もしばらく続きますが、それはまた別の記事で。
こうして私は、東京で一人暮らしを始めることになりました。
抜け殻のまま迎えた卒業式前日。
美智子先生とは、卒業式が終わって後にお祝いの食事会に行く約束していました。
卒業式で演奏をすることになっていた私は、体育館で準備をしていたところに、別の先生から呼び出しがかかり職員室へ。
「落ち着いて聞いてね。美智子先生が倒れて、今、病院に運ばれたの」
病院に駆けつけたものの、面会謝絶の厳しい状況で、お会いすることはできませんでした。
翌日、先生のリクエストで練習していた「風と共に去りぬ」のタラのテーマも泣きながら弾いて、私は、人生で一番悲しい卒業式を終えました。
その後も面会は叶わないまま、抜け殻な私は早稲田の一年生になりました。
連休に帰った時にはお見舞いに、と思っていたところに美智子先生の訃報が届き……とうとう、お別れができないまま、私は大人になってしまったのでした。
美智子先生への詫び状~私が文章を書く理由
私がいまでも、こうして文章を書く(書き続けられる)理由の一つは、美智子先生へ返すことのできなかったご恩があるから。
弁論大会の審査員のご依頼をお受けしたのも、そうでした。
美智子先生に頂いた銀の指輪は、私は、今でも文章を書く時のお守りにしています。
もしもあの時、美智子先生が声をかけて下さらなければ。
もしもあの時、抜け殻の私が何度もお断りした時に、美智子先生が諦めてしまっていたら。
そしてそもそも、私がすべてをあきらめて、文章すら書かずに消えてしまっていたら。
「今」はなかったのでした。
抜け殻の足あとも、もしかすると誰かの勇気のきっかけになれるかもしれない。
コロナな今、ふとそんなことを思い、この記事を書きました。
「お前の人生は、誰の参考にもならないなぁ」と担任の与儀先生に笑われた私の人生ですが、それでももしも、何かのヒントになれたなら本当に幸せです。
人生、抜け殻な時もあります。
全力で挑戦したからこそ「抜け殻」になるのだと思います。
でも、抜け殻なりに、できることもありました。
だからあなたの明日も…転機に、なぁれ!
自分の中にある答えを探しに行こう!
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