こんにちは。
実はストリート出身だと言うと驚かれることの多い、紀々ねぇさんです。(どうやら、箱入りなお嬢様だと思われているらしい……)
ある時、メジャーで活躍されているコメディアンの方から「紀々さん、ストリート出身って最強だよ!」と教えて頂きました。
当時は何も意識していませんでしたが、今になってみて「ストリートが最強」の意味がわかってきました。
先日の私の早稲田までの風変りな道のりを綴った記事が好評だったので、あの中でザックリ「中略」とした部分を、少しずつお届けしたいと思います。
書いてみると、やっぱり盛りだくさんで入りきらなかったので、またお届けします(笑)。
沖縄には居場所がなかった、致命的な理由。~戦えないメンタル
初めて名刺を持ったのは14歳、舞台づくりと表現などを学ぶために北九州に通い始めた頃です。
そもそもなぜ、北九州に通っていたのか?
沖縄にもエレクトーンの教室はありましたが、そこで進める道は限られていました。
「ヤマハ主催のコンクール」と「グレード審査」が主な舞台。
でも私には、その道には向かない致命的な特徴がありました。
それは……
競争が苦手。
何度か出場したコンクールでは、せっかく勝ち上がっても帰りの車の中で泣きじゃくり、母を困らせていました。
理由は「一緒にがんばってきた~~ちゃんが選ばれなかったから」。
そりゃ仕方ないよ、一人しか選ばれないんだから……という理屈は私には受け入れられず、母は「この子はこの道では無理だ」と確信したそうです。
音楽系の学校に進まないことを決めたのも、このハングリー精神のなさが理由でした。(それは本当に正しかったと思います)
これは今でも変わらない性格。
なので神さま(特定の神はいませんが)も、「仕方ないな」と競わずに早稲田に行く道を用意してくれたのかもしれません。
競えないメンタルの私にしか弾けない曲を、探したい!
「競わない音楽」の世界はないのか?
沖縄で行き詰まってしまっていた当時の私は、目標も見失っていました。
そんな時に、偶然、演奏会のために来沖していた師匠と出会い、ゆっくりお話する機会がありました。
これまでに見てきた「競う」演奏とはまたく別世界の「オリジナルの表現の世界」に、私は本当に衝撃を受けました。
「あのね、人にはそれぞれ『その人にしか弾けない曲』ってあるんだよ。技術的には弾けても、そういうことではなくて……。それはとても大事なの」
すっかり壁にぶつかっていた私には、師匠の言葉の一つひとつが栄養のようにしみ込んでいました。
その場で「私もレッスンを受けたいです」と申し出てしまったことを覚えています。
競えないメンタルで、ストリートへの挑戦!~師匠からの課題のハードルは高かった!
師匠からの課題は、いつもハードルが高いものでした。
それにまともに挑戦する、ちょっと全力投球すぎる当時の私は、そのお蔭でかなり成長しました。
中でもダントツの課題は「ストリートでの演奏」。
演奏、というと美しい響きですが、つまりは「雨風にも負けない武者修行」。
なぜ、ストリートなのか?
理由は、次の通りです。
コンサートホールに来てくれるお客さまは、よほどのことがない限り、退屈だったとしても帰ることはない。
でも、ストリートの場合は、立ち止まってもらうことさえ難しい。
そんな環境の中で、どれだけ足を止め、そして最後まで聴いていてもらえるか?
「上手に弾く」だけではない、エンターティナーとしての力を磨いてくるように。
働く14歳、自分で舞台を探す!~超アクティブな帰宅部
こうして私は「14歳に弾く場所を提供してくれるところ」を探すことから、始めました。
父に企画書なるものの書き方を習い、自分で先方に連絡を取り、お願いをして、最後の打ち合わせは「保護者同伴」で母に同席してもらう、というのが主な流れ。
この時の手描きの名刺が、人生最初の名刺でした。
師匠からの高いハードルを超えるためには、学校の授業をクリアするのがやっと。
とても部活に入る余裕はないので、自動的に「帰宅部」だったのですが、かなりアクティブな帰宅部でした(笑)。
私の活動が表に出るまでは、「サッと来てパッと帰る」姿は、同級生にとってナゾだったのではと思います。
競えないメンタルの14歳、ストリートデビューする!
演奏させてもらえる現場探しは、はじめは苦労もありました。
「営業妨害しないで下さいよ」と念を押され、準備中からずっと担当の若い男性が立ち合って(見張って)いて、プレッシャーも感じつつ、でも弾けることがうれしかったのを覚えています。(この感覚は大事ですね。大人になると、なかなか難しいです)
ギャラを頂くどころか、こちらが押しかけている形なので、すべて自己負担。
もちろん司会者もいないので、自分でしゃべってスタート。
いざ演奏が始まると……だんだんお客さんが立ち止まってくれて、その輪は大きくなり、見張りのお兄さんの姿も隠れてしまうほどでした。
一緒にいてくれた友人が、立ち止まってくれた人数を曲ごとに数えてくれていたのですが(ありがたい!)、100人を超えることもしばしばの盛り上がりとなりました。
吹き抜けのショッピングモールでは、2Fからも人の顔がズラリ。
エスカレーターに乗る人も、上り下りともにこちらを向いているという不思議な光景でした。
30分くらいの演奏を、3ステージくらいさせてもらったと思います。
終了後、お客さまの波が消えて落ち着いたころ目の前に立っていたのは、あの見張りのお兄さん。
名刺を手に待っていて下さり……「今後とも、どうぞよろしくお願いします」。
こうして、私のストリート人生は幕を開け、ご依頼を頂くようになり、子どもの日・七夕・クリスマス・新年のイベントや結婚披露宴・同窓会・企業のパーティーなど、様々なイベントにうかがうことになります。
ストリートでの百戦錬磨な日々の風景
どんな感じだったか、気になりますよね?
懐かしい写真をいくつかご紹介します。
私は童顔のため、そのままだとどうしても子どもっぽい雰囲気で演奏できる曲が限られてしまう、という悩みがありました。
そのため、髪を伸ばしパーマをかけて(学校には許可をもらっていました)、幅広い曲に対応できるようにしていました。
14歳の時に「18歳ということにしてね」と広告代理店の方に頼まれて現場に行くようなこともあり、演奏よりも会話をあわせるのに一苦労したこともありました。
でも、いま思うときっとバレていたと思いますが。
パーマもメイクも十代の頃に思いきりやったので、今は反動でこうなったのかもしれません(笑)。
雰囲気的には、今の方が若く見えると言われます。(あの頃はとにかく頑張っていたので、今の方が肩の力も抜けているのだと思います)
1992年頃のクリスマス、国際通りにあった那覇OPA(今はドン・キホーテ)です。
この時は、ご依頼を頂いての演奏でした。
広告代理店からのご依頼で、新車発表会にもうかがいました。
いま振り返ると、まだバブリー感が残る時代でした。
ずっとこの世界から世の中を見てきたので、変化を実感します。(そんなお話も、またあらためて)
児童館からもご依頼を頂いて、楽器と一緒に行きました。
「何が起こるかわからない」ワクワク×ドキドキ現場を積み重ねる中で、そこにいる人にピッタリの曲と言葉を選びながらお届けするという力が磨かれました。
プログラム・台本通りどころか、そもそもそれがない世界なので、それはそれは……色んなことがありました。
お客さんが近づき過ぎたり、弾いている途中に話しかけられたり、そんな対応力は、演奏以外の現場でもかなり役立っています。(音楽よりも出番は多いかも)
1992年頃のパレット前広場です。
広いので、私が小さく見えますね~(左です)
「ラララ♪りうぼう」というご縁が生まれるなんて、夢にも思っていない時です。(こっそり教えてあげたい!)
ストリートミュージシャンな中学&高校生は、どんな生活をしていたのか? というナゾについて。
バブル崩壊後にプロになった私は、社会に出て痛感することになるのですが……アマチュア時代の方が、イベントは花盛りで企業も羽振りがよかったのです。
なので、様々な演奏の機会を頂きました。(屋根あり・なし含む)
芸能学校に通っていたのかと聞かれることもありますが、普通の公立中学・公立高校でした。
「成績が落ちたらレッスンは受けさせない!」という師匠との約束を守るべく、学校の勉強は自力で頑張りました。(塾も家庭教師も経験なし。そのお金と時間は音楽にかけさせてもらいたかったので)
演奏活動は、学校が休みの日を中心に、でもテスト期間など学校が早く終わる時には、テストを終えて現場に直行→演奏ということもあり、そんな時は、制服を着た友人や学校の先生方も見に来てくれていました。
あまりに多忙な私には聞きづらかったようで、よく妹が質問されていたそうです。
「お姉ちゃんは、いつ勉強しているの?」
そう聞かれた時にどう答えていたのか、聞いたことがありました。
「家でのお姉ちゃんは、食べてるか・寝てるか・弾いてるかのどちらかです」
はい、まさにそういう日々でした(笑)。
紀々の恩返しへの予告編
そんな日々は、家族とそして友人たちにも本当にたくさん助けてもらってきました。
感謝の気持ちでいっぱいです。
まだまだ恩返しできていないので、みなさん、どうか待っていて下さいね!(業務連絡でした 笑)
まとめです。
「ストリート出身は最強」という説は、やっぱり本当だと思います。
何が起こるかわからないという状況を「どうにかする」力というのは、きちんと整えられた舞台では鍛えられないものだったからです。
劇団員よりもストリート出身が強い。
役者さんたちからそう言われてビックリでしたが、こうして振り返って納得しました。
答えなきコロナの時代、何が起こるかわからない時代を乗り切るために、ストリートで鍛えられたこの「どうにかする」力(筋力)が役立つと感じています。
この筋力を、あなたの転機のきっかけに役立てられたらと願いつつ、このブログを書いています。
もしも、この記事を読んで誰かのことが思い浮かんだ時には、是非お伝え頂けたら心強いです。
まだ見ぬあなたへ、エールを込めて。
あした、転機になぁれ!
自分の中にある答えを探しに行こう!
『かがみ屋へ、ようこそ。』(PDF版)、無料公開中。
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